古本買取センターの歩み

創業時の店舗 (梅田新道)


 弊店の創始先代黒崎丈一は、先考早助の三男として、明治二十七年十二月十五日、岡山県久米郡弓削村に生まれました。同村にて学を修め、郷里の村役場に勤務の後、商業を志して、大正十二年に僅か四円の資金を以て来阪しました。

 車夫、牛乳、新聞配達、夜店等あらゆる辛苦を嘗め、素志を貫徹し、大正十三年、大阪市北区野崎町に「烏城閣黒崎書店」を名乗り、古書販売業として開業しました。開業間もなく実弟啓治(明治三十四年八月十六日生)を郷里より呼び寄せ、その後すぐ、梅田新道お初天神西向かい(北区曽根崎上三丁目一番地)にて、兄弟で商売を始めることとなります。屋号の「烏城閣」は、出身岡山の名城の別称であることに因み付けられたそうです。
 
 翌十四年九月、当時発足間もない大阪古書籍商組合(現大阪府古書籍商業協同組合)に加盟し、丈一は昭和六年より戦中まで同組合評議員を歴任、また、当時各地に点在した古書交換定期市場の内、中央倶楽部(北区堂島中町)や北星会(北区曽根崎上二−三三中田書店方)などに所属しておりました。
 
 丈一の営業方針には、書籍の将来に於いては古書及び新本の区別なく何れの顧客の需要に応じるものであるとし、新古書兼業にて、参文社、盛文館などの取次店と取引きし、大阪駅と梅田新道を結ぶ商店街(現御堂筋)にて大層繁盛したと聞いています。また、この頃に良く売れた哲学、思想、宗教、全集などを中心とする古書目録を刊行しておりました。その目録には、

「知って頂きたいが一番、売って頂きたいが二番、買って頂きたいが三番」

の標語を掲げ、また、同目録の注文の栞からは台湾、朝鮮、樺太各地への応需していたことが窺えます。

昭和八年度後期版古書目録

表紙には「知って頂きたいが一番、売って頂きたいが二番、買って頂きたいが三番」の標語が、また見返しの「御註文方法」には「送料は内地標準ですから、台湾、朝鮮、樺太、其他海外からの御註文は適當御加算願います。」との記載が見られます。


戦前―「大黒、中黒、小黒」の時代

 昭和八年、実弟啓治は分家し、住吉区山坂西ノ町(現阿倍野区長池町)に新たな店舗を開業しました(ここが現在の弊店に当たる所となります)。また、昭和十二年には、丈一の長男信通が、東淀川区十三西之町で支店を開業、間もなく北区堂島舟大工町(堂ビル北)に移転することとなりました。この頃大阪古書業界では、大黒(丈一)、中黒(啓治)、小黒(信通)の取り引き屋号で親しまれていたそうです。
 
 この頃のエピソードとしては、日本の戦時色が一層深まって来た昭和十五年頃、来阪されていた中華民国の政治家、陳公博と王兆銘(精衛)が厳戒体制の中、梅田新道の本店に立ち寄られ、滞在されていた中之島ホテルに何度かご注文品をオート三輪で配達したという話が残っています。

 敗戦も濃くなった終戦間近い昭和二十年頃、梅新の本店は、已むなく閉店となり、戦後間もなく、阪神マート(現阪神百貨店)の地階に出店の要請があり開店しました。
 
 出版も儘ならない頃なので、娯楽を活字に求めた顧客が店に押し寄せ、今朝ぎっしり詰まった本棚は、夕刻にはガラガラになり、活字に飢えた時代の今では信じられない活気のある盛況ぶりであったそうです。また、時には東京のご同業の方々が来阪され、古書をリュックサックに詰め、仕入れて帰られたと聞いています。

初旅競争双六

戦前発行の絵双六です。35のマスに「古本一般何でも買ひます 阪和南田辺駅西改札口前 烏城閣黒崎書店」と、当店の当時の広告が掲載されています。

古書業者の会「月曜会」

 このような戦後の慌しさの中にも、百貨店古書部を営業していた業者たちが、百貨店定休日が月曜日であり、その休日を利用して自慢出来る珍本五点持ち寄り研究会を兼ねた入札会(わんぶせ)を誰言うことなく申し合わせて発足したのが「月曜会」です。
 当時の模様をカズオ書店の伊藤一男氏の手記によれば下記の通り,

「第五回例会 昭和二十三年二月二日、岡町の黒崎烏城閣邸にて開催す。この月は品薄にて低調なり。入札後、山内神斧氏の処女出版、武者小路実篤の豆画帖「自然のつくったもの」の祝賀会に移り、月曜会のために作られたという豆画帖(二十部本)を頂戴して散会す。出席者二十一名、出来高八万九千円。」

(「月曜会」第一回例会 昭和二十二年十一月三日から第十九回例会 昭和二十五年三月十三日まで開催 )

月曜会例会ごとに書かれた会員の芳名録

創始丈一の隠居

 その後、阪神マート地階より好条件の一階北東角(ストア内)に移転し、その経営を専ら信通に任せ、丈一は梅田新道西側すぐ(北区曽根崎上三丁目十一番地)に店舗を再び構えることとなり、また現大阪中央郵便局南(北区梅田町四七番地)にも支店を開業しました。
 
ところが昭和二十五年、突然隠居すべく、古書の経営を辞め、宝塚清荒神参道に静山荘(山小屋旅館)を設立、その経営が順調になり始めた頃には、信通も古書業界を離れるようになりました。(昭和四十四年一月三日・丈一逝去)

当店で使用されていた値札

それぞれの時代の値札を集めてみました。値札ひとつとっても、その時代の空気が感じられはしないでしょうか。
ちなみに右下が現在当店で使用されている値札になります。

現在の黒崎書店

 現在の弊店は、先に記しました通り、丈一の実弟である祖父啓治が、梅田より分家し、昭和八年、阪和電鉄(現JR阪和線)南田辺駅前(当時、住吉区山坂西ノ町)で新たな開業をいたしました。
 その背景には、当地は大阪の新興住宅地であったことだそうで、沿線の杉本町には、大阪市立商科大学(現大阪市立大学)が、当駅南田辺には旧制大阪高等学校があり、駅前には、古書店も沢山あって学生を相手に大層賑わっていた学生街でありました。

 戦時中は、お蔭様で戦災を逃れ無事でしたが、昭和三十年頃より地下鉄延伸、新駅開業により人の流れが変わり始めました。よって昭和四十年頃からは、営業方針を変更、新入荷を謄写版の速報目録として刊行したり、古書即売会に出展したりと、父明人は、外商販売に力を注ぐようになりました。(昭和四十七年十月三十日・啓治逝去)


昭和39年頃 旧店舗前 (現社屋前にて)

 昭和五十五年四月より、弘次郎が入店、昭和五十七年六月には、戦前より途絶えていた古書目録を復刊し、現号を数えます。昭和五十六年、弊店の向かいに支店を開業いたしましたが、JR阪和線立体高架工事による立ち退きが進み、店舗を統合、平成六年三月、当地に自社社屋を落成。一、二階を店舗とし、この同期に有限会社黒崎書店に改組することとなりました。

復刊第一号の古書目録

昭和57年に復刊し、現在第77号まで数えます。(※平成22年8月現在)


最後に

 バブル景気と崩壊、昭和から平成へと時代は流れ、この八十年の間には、店頭販売から外商、目録販売へと移行、いまやIT技術を駆使し、インターネットによる古書販売も定着しつつあります。
 創始丈一が創業時、新古書兼業という当時、新しい視点に着目した精神を学び、決して八十年の伝統に囚われる事なく、古書籍商としての道を一層精進していく所存です。永年のご厚情をいただいています顧客の皆様方には、今後とも倍旧のお引き立て賜りますことをお願い申し上げます。

 最後に創業以来、従業員として弊店を支えてくださいました方々に改めまして深い謝意を表するものであります。

作成 黒崎弘次郎


参考文献

「大阪古書組合月報」 戦前戦後版
「全国書籍商総覧」 新聞之新聞社
「近畿在住岡山県人活躍史」 全国岡山県人協会
「紙魚放光」 尾上蒐文洞古稀記念

また、烏城閣黒崎書店番頭、野村光雄・政雄両氏に当時のことを伺った。

※平成15年8月発行、幣社創業八十周年記念古書目録に掲載した「黒崎書店略史」に、一部加筆・訂正を加えて転載いたしました。